русский 宇宙主義
русский космизм。Russian cosmism
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/yuraru/ロシア宇宙主義
Никола́й Фёдорович Фёдоров
ニコライ・フョードロヴィッチ・フョードロフ - Wikipedia
小俣智史
https://gyazo.com/f7c02208e152b02470e5bf25b37ba06c
「事業」:主要テーマと核心槪念の徹底解說
要旨
本ブリーフィング文書は、19世紀ロシアの思想家ニコライ・フョードロフ(1829–1903)の特異な思想を、「技術」といふ視點から多角的に分析し、その全體像を明らかにすることを目的とする。フョードロフの思想は、死者の物理的復活といふ宗敎的・唯物的な「共同事業」を提唱したことで知られ、ドストエフスキー、トルストイ、ソロヴィヨフといった同時代の巨匠たちに影響を與へた。本稿では、彼の思想の中核をなす「技術」槪念に焦點を當て、それが死者の復活、科學、藝術、專制、經濟といった多樣な主題といかに密接に結びついてゐるかを詳細に檢討する。特に、彼の「技術」が単なる功利的な近代技術とは異なり、神と人閒の共働 (συνεργία)による「自然の統御」を意味する「二重の道具化」といふ獨自の倫理的・宗敎的性質を帶びる點を強調する。
1. 「技術」槪念の再定義と中心性
フョードロフの思想を理解する上で最も重要な鍵となるのが、彼獨自の「技術」槪念である。この槪念は、從來のフョードロフ硏究において副次的または非本質的な要素として扱はれてきたが、本稿ではこれを彼の思想の核心に位置づける。
「技術」の二重の道具化(二重の媒介): フョードロフにとって「技術」とは、人閒が自然に働きかけ、自然を道具化するといふ一般的な理解に加へて、人閒が神の道具となり、神と共働 (συνεργία)して「自然の統御」を行ふといふ「二重の道具化」を意味する。
「フョードロフにとって「技術」とは、近代の功利的な技術觀とは異なり、人閒が神の代理、つまり神の道具となって「自然の統御」をおこなふことであり、こうした道德的・宗敎的な神人共働 (συνεργία)こそが、「技術」の本來的な意味なのである。そのため彼にとって「技術」はあくまで唯物的性質を保ちながら、同時に道德的・宗敎的な性質を帶びるものとなる。」(Shinsa-7596.pdf)
「フョードロフは、自然を人の道具に變え、同時に人が神の道具に變はるといふ、二重の道具化のプロセスにより、技術にもとづく道具的關係を神・人・自然の三者關係に擴大する。彼の思想の獨自性はまさしくこの點にある。」(Gaiyo-7596.pdf)
「共同事業」の核心: この「技術」理念は、フョードロフが提唱する「死者の物理的復活」を目的とした「共同事業」に最も端的に現れる。これは單に死者を科學的に復活させるだけでなく、技術を用いて神・人・自然の三者關係を媒介し、神による自然の倫理的・道德的な統御を全人類的・全宇宙的規模に擴大する問題として捉へられる。
「倫理的・宗敎的「技術」理念が最も端的に現れてゐるのが、死者の復活の「共同事業」にかんするフョードロフの議論と言へるだろう。」(Shinsa-7596.pdf)
「そこでは、「共同事業」がただ死者を復活させることを目的としてゐるのではなく、總體としての人類全體が主體となり、技術にもとづく神・人・自然の三者關係、神の閒接的な統治を宇宙規模へ擴大することを目的としてゐることが明らかになった。」(Gaiyo-7596.pdf)
2. 「技術」が貫く多樣な主題
フョードロフの獨自の「技術」理念は、彼の思想の樣々な側面で一貫して重要な役割を果たしてゐる。
科學論における技術: 知識人(理論理性)と民衆(實踐理性)の分離を問題視し、科學の道德的・實踐的應用としての「技術」による兩者の統一の必要性を說いた。知識人の科學・技術的知見に民衆の道德的原理を接續することで、自然の道德的統御を行おうとする。
「科學の道德的・實踐的應用としての「技術」による兩者の統一の必要性が說かれてをり、ここには、知識人が持つ科學・技術的な知見に民衆的な道德的原理を接續することで自然の道德的統御を行なおうとする、彼獨自の「技術」理念の現れを見ることができるだらう。」(Shinsa-7596.pdf)
藝術論における技術: 藝術を「世界の統御」として技術的に現實化されるべきものと捉へ、科學と藝術の統一、科學による藝術の技術化を主張した。聖堂を藝術の綜合とみなし、「存在しなければならないものの計畫」を示すものとして捉へる。
「フョードロフは藝術の起源に道德性を見出してゐることを明らかにし、その上で、科學と藝術の統一とは科學と道德の統一にほかならず、そのあらはれが星々の統御となることからも、それは藝術の技術化と呼び得ることを明らかにした。」(Gaiyo-7596.pdf)
專制論における技術: 專制の使命を「父代はり」の專制君主のもと、家父長的な親縁關係、兄弟的關係を築くことで死者の復活へと向かう共同體を作り出すことと見なした。專制は、技術を用ゐた死者の復活や自然の統御へと人々を導く權力として捉へられた。
「專制は、技術を用ゐた死者の復活や自然の統御へと人々を導く權力とみなされた。このやうに專制論もフョードロフの思想を貫く「技術」理念のあらはれと言へるのである。」(Shinsa-7596.pdf)
フョードロフは專制君主を「父の地位を占める相續人、遺言執行人」とみなし、專制を「祖國(отечество)」と同一視する。「祖國(отечество)」は單なる地理的な槪念ではなく、父性に基づく親族的共同體、さらには三位一體を範型とする神格化された親族的共同體を意味する。これは、市民社會や國家といった近代の枠組みに優先する「反近代的傾向」を持つ。
「父の地位を占める相續人、遺言執行人なのであり、それこそが專制君主なのである。」(Predkov-7596.pdf)
「この祖先をどのように呼ぼうとも…いずれにせよ專制君主はその人、この始祖の代理人となるだらう。」(Predkov-7596.pdf)
フョードロフは「專制・正敎・國民性」といふナショナリズム的スローガンを、祖先崇拜に基づく父や祖先への愛として再解釋し、その普遍性を強調した。これは排他的ナショナリズムの枠組みを超え、全人類的共同體に對する愛と一致するとされた。
「專制・正敎・國民性」は、父たちへの愛といふ意味でのパトリオチズム、つまり祖先崇拜の表現であり、これはスラヴ派や西歐派の解釋が眞のパトリオチズムを理解していなかったと批判された。
「これらの三つの原理 正敎、專制、國民性 はすべて、至高にして神聖、民衆的な意味と同時に、その最も古い意味におけるパトリオチズムの表現なのであり、父たちへの愛といふ意味における、パトリオチズムの表現なのだが、その愛のための表現となるべきであり、またそうなりうるのは、ただ全父的事業のみなのである。」(Predkov-7596.pdf)
經濟論における技術: フョードロフは經濟の問題を不道德なものとみなし、生と死の問題(自然の統御、「技術」の問題)に置き換へるべきだと考へた。しかし、彼の死後、20世紀初頭のロシア思想家(ブルガーコフ、ベルジャーエフ、セトニツキーら)によって、マルクス主義の唯物的經濟觀を剋服するための宗敎的「技術」理念として「經濟」の問題に應用され、再解釋された。
「フョードロフにおける「技術」理念は、經濟の問題に應用されることで、20 世紀初期のロシア思想に特徵的な獨自の「經濟」理念へと再解釋され展開されたのであった。」(Shinsa-7596.pdf)
3. フョードロフ思想の形成と「合唱」槪念
フョードロフの思想は、その生涯を通じて徐々に形成・發展し、テクストにもその變化が反映されてゐる。特に「合唱」の槪念は、彼の思想形成の一端を明らかにする上で重要な示唆を與へる。
思想の時期區分: フョードロフの著作は死後に編纂されたため成立年が曖昧だが、1881年を境に前期と後期に分けられる。
前期(1881年頃まで): キリスト敎の諸槪念(復活、三位一體)のリベラルな解釋と、それらを科學的・內在的な方法で達成しようとする志向が特徴。家族の結びつきを斷ち切る死への抵抗と復活、宗敎と科學の一致が根本的な問題意識。
「この頃のフョードロフの關心は、…キリスト敎の諸槪念(復活や三位一體)のリベラルな解釋と、そこから導かれる宗敎的使命を科學的・內在的な方法により達成しようとする志向にあるといへる。」(BungakuKenkyukaKiyo2_59_Omata.pdf)
後期(1881年以降): 前期のアイデアを繼承しつつも、當時の社會的・政治的問題や同時代の言說への言及が增え、思想の內容が充實する。「共同事業」槪念が中心テーマとなり、復活の具體的な科學的方法論への言及は相對的に後景化する。これはソロヴィヨフやコジェヴニコフといった協力者の影響や、不特定多數の讀者を意識した出版の意圖が背景にある。
「後期の著作群では、その時代の出來事や言說を一部は受け入れ、また一部は批判するといふかたちで思想の內容が充實してゆくといふことである。」(BungakuKenkyukaKiyo2_59_Omata.pdf)
「合唱」槪念の登場と展開: 「合唱(хор)」の用例は、比較的早い時期のテクストには見られず、1880年代後半以降の後期テクストに顯著に現れる。これは「合唱」がフョードロフの思想の中に後から取り込まれた槪念であることを示唆する。
「「合唱」の用例が比較的早い時期に書かれたとされるテクスト(例えば 1878年から 81年にかけて書かれたとされるテクスト)には見られず,1880年代後半以降に書かれたとされるテクストに見られるといふことにある。」(46_6.pdf)
スラヴ派ソボールノスチ論との對話: ロシア思想史において「合唱」はスラヴ派のソボールノスチ(共同性・連帶性)槪念と結びついていた。フョードロフはスラヴ派のソボールノスチ論が目的や手段、範型において不充分であると批判し、自身の「合唱」槪念に能動的な「事業」の目的を與へた。
「フョードロフの合唱槪念は人々の集合や統合といふ點でスラヴ派のソボールノスチに近しいが、同時に、フョードロフがそこに缺けてゐると考へていた目的(「事業」)が補はれてゐるのである。」(46_6.pdf)
ニーチェ批判と藝術論: フョードロフはニーチェの藝術論(模倣としての造形藝術、意志の表現としての音樂)を「死せる模倣」として批判し、自身の藝術論において聖堂を「存在しなければならないものの計畫」を示すものと捉へた。この文脈で「合唱」は「最初の藝術作品」としての聖堂を形成するといふ含意を持つやうになった。
「人々を一つの合唱へと、一つの共同事業においてまとめ、この事業を加速し容易なものとするような音樂のみが、人の手を介してゐるとはいへ、實際に內容に富み、實り豊かにして創造的な音樂と呼ばれうるのだ。」(46_6.pdf)
「聖體禮義」との連續性: 後期に登場する「合唱」槪念は、前期から見られる「聖體禮義(литургия)」槪念と連續性を持つ。「聖體禮義」はフョードロフにとって「共同事業」の同義語であり、「聖堂外の聖體禮義」といふ槪念は、儀禮空閒に留まらない宇宙規模の活動を示唆した。
「フョードロフの合唱槪念は,初期のテクストから見られる槪念でいえば,「聖體禮義(литургия)」に附與された意味の圈域に近しいといふことである。」(46_6.pdf)
「聖體禮義は聖堂をつくりだす。」(46_6.pdf)
音樂・聲の力: フョードロフは音や聲、歌に人々を集め、まとめる力を認め、合唱はその延長線上で理解される。特に「葬送の歌、哀歌」といった歌の集合的表現が、悲しみから復活へと向かふ「事業」の契機となる。
「人閒はおのれの全身で哀歌に参加した。悲しみの感情は腕だけでなく足をも動かして表現された(拍子)。人閒は木や金屬を泣かせようと,それらから悲しい音を取り出した。」(46_6.pdf)
多聲 (полифония)
4. 祖先崇拜の槪念と專制
フョードロフの思想における「祖先崇拜」は、單なる傳統的な崇拝とは異なる、彼獨自の極めて獨創的な槪念である。
祖先崇拜の三つの特徴:
子の愛としての祖先崇拜: 兩親や祖先への愛、特に子や娘の愛を最も主要な愛とみなし、それが祖先崇拜につながると考へる。
「親族的愛とは[…]三重の愛である。第一の主要なる愛は子や娘の愛であり、父や兄弟の愛はそれにより是認される。」(Predkov-7596.pdf)
孝
復活への表現: 祖先崇拜を、死者の物理的復活といふ「事業」の道德的必要性を表すものと捉へる。父なる神と子なる神(イエス)の愛をその範型とみなす。
「福音書は全體として、子なる神が父らの神へと抱く自らの愛について語る絕えざる講和であり、そのやうな愛をすべての人の子たちに要求することである。…この愛の中にこそ復活の根源がある。」(Predkov-7596.pdf)
キリスト敎との同一視: 祖先崇拜とキリスト敎(特に正敎の三位一體と復活の敎義)を同一視し、「唯一の宗敎」とみなす。カトリックやプロテスタントがこの本源的一致を歪曲したと批判し、正敎がその特性を保持してゐると考へる。
「眞の宗敎は一つである。それは祖先崇拜であり、さらに言えば、全ての父達を一人の父として全世界的に崇拝することなのだが、この父達は三位一體の神から分離されず、それと融合することもないのであって、この神の中で神格化されてゐるのは、子達および娘達が父達と分離も融合もされないといふことなのである。」(Predkov-7596.pdf)
專制との結びつき: フョードロフは、祖先崇拜に基づく親族性を、ロシアの專制といふ具體的な政體に投影する。專制君主を「父の地位を占める者」と見なし、專制を「祖國(отечество)」と同一視する。この「祖國」は、三位一體を範型とする不死の共同體、すなわち神格化された親族的共同體を意味する。
「兄弟的統一を恢復するために、…父的共同事業において、死せる父達の子達の兄弟的同盟を指導するために必要なのは、父の地位を占める相續人、遺言執行人なのであり、それこそが專制君主なのである。」(Predkov-7596.pdf)
ビザンティン・ハーモニー - Wikipedia
共同體家族 (C)
脱ナショナリズムと普遍性: フョードロフの專制論は、一見するとナショナリズム的な色彩を帶びるが、その根底には祖先崇拜に基づく普遍的な親族性の擴大がある。彼は「專制・正敎・國民性」といふスローガンを、排他的なナショナリズムの枠組みを超え、すべての死者を含む全人類を對象とする「全父的事業」へと向かふものとして再解釋した。專制君主は、アダムやノアを含む「始祖の代理人」とみなされることで、專制は全人類を子として含む規模へと擴大される。
「專制はわれわれの統一、ロシア人やスラヴ人のみならず人類一般の統一の守護者なのだが、それといふのも、專制は始祖の地位に立ってゐるからである。」(Predkov-7596.pdf)
終末論的意味: フョードロフにとって專制は、現實の政體ではなく、死の剋服を目的とする「共同事業」によって實現されるべき終末論における理想郷、いはゆる「神の國」に近しい槪念である。これは、法的・經濟的關係を親族的・道德的關係に置き換へる、極めてユートピア的な構想である。
「專制の意味はすべての死者の復活といふ彼の中心的思想の延長上に見出されるものである。言ひ換へれば、ここで言はれてゐる專制とは終末論における理想郷、いわゆる神の國に近しい槪念である。」(Predkov-7596.pdf)
祖先崇拜に復活といふ動的な要素を與へることで、靜的な儀式的信仰から未來志向の「事業」へと轉換させ、終末論的目標を與える。
結論
ニコライ・フョードロフの思想は、「技術」といふ槪念を中核に据えることで、その多面性がより鮮明になる。「技術」は單なる科學技術ではなく、神・人・自然の「二重の道具化」を通じた倫理的・宗敎的な神人共働 (συνεργία)の営みとして、死者の物理的復活といふ究極の「共同事業」へと人々を導く。この獨自の「技術」理念は、科學、藝術、專制、經濟といった彼の議論のあらゆる側面に浸透し、一貫した思想體系を形成してゐる。彼の思想は、同時代のロシア思想家たちに強い影響を與え、「ロシア・コスミズム」の源流としても再評價されてゐる。フョードロフは、急速な科學技術の發展と唯物論的世界觀が擡頭した時代において、科學技術と宗敎、道德を調停する途、すなわち神人共働 (συνεργία)としての宗敎的・道德的技術の可能性を示した、未來を見据へた思想家であった。彼の思想が時代と共に形成・發展し、同時代の言說や狀況との對話の中で豊かになっていったことは、「合唱」や「祖先崇拜」といった槪念の分析からも明らかである。
小俣智史「フョードロフの祖先崇拝概念と専制」2011/2/26
死せる父たちの復活 (воскрешение умерших отцов)
祖先崇拜 (культ предков)
兩親をはじめとする父たち、祖先たちに對する愛
親族的愛
子や娘の愛
子たちや娘たち (すなわち子供たち) が父たちに抱く愛、すなはち父たちや祖先たちの崇拜 (культ отцов-предков)
子なる神 (イエス) の愛
父や兄弟の愛
子や娘の愛によって是認される
夫婦の愛
子供への愛によって堅固になる
復活といふ表現
キリスト敎と同一視され唯一の宗敎とみなされてゐる
小俣智史「フョードロフにおける合唱の概念」2014
小俣智史「ニコライ・フョードロフの思想形成とその諸要因」2014/2/26
小俣智史「ニコライ・フョードロフにおける技術の思想」2017
福井祐生
https://gyazo.com/ff73ba426ead73a452dd14b0a6c1bf4e
フョードロフ思想における「復活」と「万物恢復論」に關する詳細なブリーフィング
はじめに
ニコライ・フョードロフ(1829-1903)は、19世紀から20世紀にかけてロシアの文學、藝術、宗敎哲學に多大な影響を與へた宗敎思想家である。彼は、傳統的なキリスト敎の復活と最後の審判の敎義を批判的に捉へ、神による超越的な終末の出來事としてではなく、人類自身が能動的に關與し、漸次的に達成する「復活事業(воскрешение)」を構想した。これは、神の意志に服從する全人類が、內在的な手段を用ゐて、死んだ祖先を復活させ、全人類と自然界の不死を實現する普遍的な救濟を目指すものである。本ブリーフィングは、彼の「復活事業」と「万物恢復論」といふ二つの主要な槪念に焦點を當て、その思想の主要なテーマと重要な要素を詳細に檢討する。
1. フョードロフの「復活事業」
フョードロフにとって、キリスト敎の傳統的な終末論、特に最後の審判における義人と惡人の分離と、惡人への永遠の責め苦は、神が人類全體に與へる罰であると解釋された。なぜなら、永遠の責め苦は惡人への罰であるだけでなく、それを永遠に眺め續ける義人にとっても罰となるからである。この問題意識から、フョードロフは超越的復活の敎義を、人類が現状の罪深い生を改めるための敎育的手段として再解釋した。
彼の構想する「復活事業」は、以下の活動を含む「自然統御」を通じて達成される。
軍事力の轉用: 他者を排斥する手段としての軍事力を、氣象統御などの自然統御へと轉用する。
祖先の遺骸粒子の蒐集: 全宇宙に散逸した祖先の遺骸の粒子を蒐集する。
博物館=聖堂の統合體: 死者に關する情報の集積と硏究の據點とし、死者の身體の再組織化を行う。
身體の再構築: 意識的かつ創造的な榮養過程を通じて、身體を再構築する。
理想社會の形成: これらの變容の活動の結果として、神の三位一體の相互性を模範とする理想社會を形成する。
この復活事業は、神の働きが人類の具體的な活動を通じて地上に實現されるといふ正敎の「神人共働 (συνεργία)」の理念やヘシカスムの實踐の延長線上に位置づけられる。しかし、その一方で、恩寵の力を排除し、專ら自然的手段に依據した社會主義ユートピア思想であるとの見方も存在し、その思想には宗敎的記述と科學的記述の二元性が指摘されてゐる。
2. フョードロフのキリスト論と「贖いの業」の再解釋
フョードロフのキリスト論は、傳統的なキリスト敎と獨自の解釋の閒で重要な問ひを提起する。ジョージ・ヤングは、フョードロフにおいてキリストが「完璧な人の子」として、ラザロの復活と自身の復活を通じて人類に復活事業のモデルを示したと指摘する。この解釋は、「キリストは既に我々を救ったのか、それともキリストはただ我々が自ら我々自身を救ふために爲さねばならないことを實例によって示したに過ぎないのか」といふ問題を生じさせる。ヤングは後者の立場を取り、フョードロフがキリスト敎敎義の核心を歪めてゐるのではないかと問ふてゐる。
この問ひに對し、フョードロフは贖いの業をキリストから人類へと移し替へたのではなく、キリストの業を人類による事業全體に「延長」したと解釋される。彼は「贖い(искупление)」といふ語をしばしば「復活事業(воскрешение)」と言ひ換へてゐるが、これはキリストの業から贖いの意味を剥ぎ取ったのではなく、その業が人類全體の能動的な活動を通じて繼續されるべきものと捉へてゐることを示す。
2.1. トルストイの道德主義的キリスト論への批判
フョードロフは、トルストイの無抵抗主義を強く批判した。トルストイは「惡に惡を以て抵抗しないこと」が惡を無に歸す有效な手段と考へたが、フョードロフは人閒が自然の盲目的な力に服從する限り惡は現實的に存在し、無抵抗主義は惡への讓步に過ぎないと主張した。彼にとって、「善によって惡を根絕することこそが新約聖書の精神に相應しい業」である。
フョードロフは、トルストイがイエスを単なる道德敎師や模範として描くことに反論した。トルストイが『神の王國は汝らの內に有り』で「もしもたった一人の人閒がそのように行動し(惡に抵抗せず)、殘りの全員が彼を磔にすることに同意するならば、彼にとって、無抵抗の愛の勝利において死ぬよりも名譽なことがあろうか」と述べた際、フョードロフは、トルストイがイエスを磔にした人々を「惡人」と見なし、イエスの彼らへの愛を無視してゐると批判した。フョードロフにとって、キリストの十字架の死は「人閒本性を死性から解放するための祕儀」であり、人類の救濟を目的とした人類の統合のために、キリストが自らを死に引き渡した最高の無抵抗の例であるとした。
2.2. 正敎の「再統合」理論による解釋
フョードロフは、正敎における十字架と復活の理解を受け繼ぎ、これを復活事業のアイデアと結びつけてゐる。正敎の磔刑圖では、十字架の臺座の下にアダムの髑髏が描かれ、キリストの血によってアダムが淨められ、世界が不滅となる十字架によって朽ちる運命から解放されると解釋される。また、正敎の復活圖は「冥府降下」の圖として描かれ、キリストの死の救濟論的次元、すなわち神が惡魔の支配を打ち破ることを示す。フョードロフは、これらの正敎の理解を、普遍的復活事業へと發展させた。
彼は十字架を、全生者が全死者を復活させるといふ復活事業の構圖を象るものと解釋し、キリストの復活を「復活事業を目的とした結合への呼びかけ」として、また「冥府降下、地獄からの死者の解放、復活事業の開始」として位置づけた。
フョードロフは、ラザロの復活をキリストの地上における奉仕で最も重要な出來事と位置づける。「キリストは復活させる者であり、キリスト敎は復活事業である。まさにラザロの復活においてキリストの奉仕が成就したのである」。ラザロの復活は人の子の業として、人の子らが行うべき復活事業の模範を示し、キリストの復活は普遍的復活事業の端緖を開く、キリスト自身による存在論的な行爲であった。これら二つの復活は「復活させる」といふ能動的な意味で一つとなり、人類の時閒を救濟史的に意味づける。
さらにフョードロフは、使徒パウロがエフェソの信徒への手紙で述べる「再統合(ἀνακεφαλαίωσις)」の槪念を用いて、キリストの業と人類の事業の關係を說明する。この槪念は、「天にあるものも地にあるものも、あらゆるものがキリストのもとに一つにまとめられる」ことを意味する。フョードロフは、ロガス・キリストの受肉が救濟史的基礎づけにおいて一次的な役割を果たすものの、それは神から人閒への一方的な作用ではなく、神の愛に對する人閒側の應答も不可缺であると考へる。人類が救濟史の過程を通じて神との交はりへと復歸することで、初めて再統合が達成される。この「再統合」理論を通じて、人類における復活事業といふ救濟史的な流れを通じてキリストの業が成就されていく樣が理解される。
2.3. キリストにおける復活事業の敎會論的側面
フョードロフにとって、復活事業を繼續する人類の統合は、キリストを頭とする敎會において行はれるべきものである。彼はキリストを「集いの頭」とし、洗禮を復活の像と捉へ、全生者の集いは全死者を復活させる以外の目的を持ち得ないとした。また、「ブドウの木―その木はキリストであり、栽培者は父なる神である―の枝の如くに結合した人々にとっては、事業の困難がどれほど大きく、どれだけ恐ろしいものであったとしても、不可能な事などありもしないのである」と述べ、復活事業が主における神人共働の業であることを強調した。
「行って、すべての民を弟子にし、彼らに洗禮を授けなさい」(マタイ28:19)といふ傳道の敎へも、フョードロフによって復活事業の履行を目的とした人類統合の敎へとして解釋される。キリストの復活と傳道の敎へは全て、一なる神人的事業としての復活事業の中にあり、復活事業全體がキリストの贖ひの業の延長として捉へられてゐる。
3. 近代におけるキリスト論とフョードロフ
フョードロフは、ドストエフスキーがルナン(Renan)の「復活」の譬喩的解釋を引き合いに出し、フョードロフの言ふ「復活」が文字通りの身體的復活なのかを問ふた書簡に對し、自身の思想が文字通りの復活であると說明しようと努めた。
ルナンは『イエス傳』において、イエスの復活やラザロの復活といった奇蹟を否定し、科學的進步による未來の人類が過去の全てを完全に理解する時が「復活」であると譬喩的に解釋した。フョードロフはこれに對し、ラザロの復活とキリストの復活を共に「一なる復活事業の道行き」において復權させ、キリスト敎の本質が能動的な復活の事業にあることを強調することで、ルナンのキリスト論に事實上反駁した。
またフョードロフは、リッチュル學派の自由主義神學を批判した。彼らは死者の存在を忘卻し、生者のみからなる敎會をキリスト敎的共同體と見なしたが、フョードロフは信經(ニカイア・コンスタンティノポリス信條)を引き合ひに出し、復活や永遠の生命といった存在論的變容を前面に押し出し、これら達成を目標とした倫理的な生き方を構想した。
アルブレヒト・リッチュル - Wikipedia#神学
フョードロフにとっての普遍的復活事業は、超越的復活の敎義に對する近代人の不信を乘り越え、眞の復活の敎義としてあった。彼は、古代ギリシアの科學が合理的な精神を促し、結果として超越的復活の敎義が損なはれたと考へた上で、これをキリスト敎からの理性の解放と捉へるコンドルセとは異なり、損なはれた超越的復活に代わる新しい復活觀、すなわち「內在的復活、復活事業の敎義」によってキリスト敎を再基礎づけようとした。
社会的福音 - Wikipedia
4. フョードロフ思想における「万物恢復論」と歷史的時閒における惡
フョードロフ思想は、これまで地上に生きた全ての人閒の復活と變容を万人の參加によって實現する共同事業を打ち立てた点で、「万物恢復論(アポカタスタシス)」の系譜に位置づけられる。彼は「アポカタスタシス」といふ言葉は用いなかったものの、「反キリストの救濟」には言及し、惡魔の救濟には言及していない。しかし、彼はキリストが「世界の救ひ主」であり、「ただ一人の破滅も望まず、万人が救はれ、眞の理性に至ることを望んでゐる」と述べ、普遍的復活や普遍救濟を強調した。彼が繰り返し引用する大祭司の祈り「すべての人が一つとなるやうに」は、オリゲネスも「万物の更新」や「神がすべてのものにおいてすべてとなる」といふアポカタスタシスに關聯する聖句と竝べて引用してゐる。
フョードロフの万物恢復論が注目される點は、ゲオルギー・フロロフスキーによるオリゲネス批判に見られるやうな、「アポカタスタシスが歷史の否定である」といふ論據に對し、歷史的時閒に生じた惡をどのやうに扱ふかといふ問題意識を持つことである。フョードロフは、普遍救濟の達成を神による歷史への介入(超越的復活)ではなく、キリストの下に結集した人類による繼續的な勞苦(內在的復活、共同事業)の先にあると考へる。
4.1. 共同事業における「過去帳」と追憶の意味
フョードロフの共同事業では、今は亡き父祖たちの記憶を司る失われた品々を蒐集し、父祖たちの姿形を現實に再現することが求められる。これは例外なき万人の追憶を通じて、普遍的復活が實現されることを意味する。
彼は、ロシア語で「シノーディク」と呼ばれる「過去帳」に特別な意味を見出した。過去帳は、本來、死者たちの安息を願ひ、敎會で捧げられる追憶の祈りのために彼らの名前が記入された本である。フョードロフは、過去帳が異端者に對する「アナテマ」と正敎の擁護者たちへの「永遠の記憶」を宣言する「正敎の勝利」といふ儀式に由來することから、過去帳への名前の記入が「永遠の記憶の保證」であり、「救濟の不可缺な前提條件」であると解釋し、これを「命の書」のやうに見なした。
フョードロフにとって、宗敎とは「全ての生者による全ての死者の追憶」である。この追憶は、どんなに罪深き者であっても、絕對的な惡の體現者として排除することを否定する。なぜなら、最後の審判で義人と惡人が分けられ、惡人が永遠の苦しみを受けることは、その苦しみを眺める義人にとっても罰となる、普遍的な罰であると捉へられたからである。フョードロフは、人類が悔い改めて能動的な「內在的復活」の道を步むことで、神による超越的復活といふ世界の破滅を囘避できると警鐘を鳴らした。
フョードロフは、過去帳が「アダムの時から我々に至るまで、今は亡き全ての者たちを」、すなわち「万人について、万人のために」を包括する「眞に全地的な公式」で始まることを指摘する。彼は、人類の始祖であるアダムとイヴから、兄弟殺しのカイン、そしてイエスを死に追いやったヘロデまで、全ての人類が父祖たちの犠牲の上に生きる罪人であると捉へ、過去帳は全ての人閒を對象とすべきであるとした。特に、重い罪を犯したと見なされて敎會から排除された者たちや、人知れず死を迎へた無名者たちを排除と忘卻から救ひ上げ、追憶の輪に數へ入れることを強調した。
4.2. 硏究としての追憶の祈り:惡の剋服と歷史的時閒の變容
罪人に對する追憶の祈りは、彼に對する赦しを前提とする行為である。フョードロフは、この問題を解決するため、「理解することは赦すことである」といふ原則に立ち、罪人とされる死者に關する「硏究」を追憶としての祈りの一部とした。彼は、その人物が罪を犯した背景を理解することによって、彼をその罪から切り離し、總體的な追憶の祈りの內部に留めることができると考へた。
この硏究は、ミトロファン・ムレトフによる「裏切り者のユダ」に關する論文のやうに、現存する資料や今後蒐集される資料の全てを分析、檢討し、その人物の具體的な姿だけでなく、当時抱いてゐた感情までも可能な限り完全に再現することを意圖する。この知的努力によって、罪を犯した人物の內的深奥奧が明らかにされる限り、彼を絕對的な犯罪者として斷罪することはできない。これにより、絕對的な罪人といふカテゴリー自體が事實上否定され、万人における相互的かつ普遍的な赦しが實現される可能性が生じる。
ただし、この硏究による罪の切り離しは、彼に救濟が保證されたことを意味するのではなく、救濟への道が開かれたに過ぎない。罪を犯した者は、全ての他者と共に共同事業に参加し、父祖たちを復活させることで自らの罪を償はなければならない。
フョードロフは、過去帳を聖なる天地創造の歷史に世俗史を一致させるための媒體として位置づけた。彼は、ナポレオンのような「非同胞性」を称賛する世俗史に對し、過去帳が罪人や無名者をも含みこむ「全的包含性」を特徵とするとした。過去帳は、罪人たちが敎會共同體へと歸還し、總體的人類において共に世界を再創造するといふ、新たな歷史的時閒を步んでいくための手助けとなる。
フョードロフは、「事實としての歷史」(自然淘汰、性淘汰、自然搾取など現在まで續く地上的秩序の現實)と、「プロジェクトとしての歷史」(キリストの下に結集した人類による死との鬪爭、死者たちの復活といふ未來)を對比する。しかし、この二つの歷史は時閒軸上で斷絕するものではなく、過去帳を媒體として「事實としての歷史」が「プロジェクトとしての歷史」へと意味づけし直されていく。復活事業は、死んだばかりの者から徐々に古い世代へと、漸次的に人類全體を復活させていくことを目指し、これに伴ひ、人閒の身體の變容や宇宙全體の調和も次第に完全なものになっていくと豫想される。このプロセスは、人類の生きてきた時閒そのものを變容させていくことになるとフョードロフは考へた。
結論
ニコライ・フョードロフの思想は、傳統的なキリスト敎の敎義を深く掘り下げながらも、近代的な人閒性や科學的進步の認識と融和させようとした點で、極めて獨創的である。彼は、神による超越的な介入としての終末ではなく、人類自身の能動的な「復活事業」を通じて普遍的な救濟を實現するといふ、劃期的な思想を提示した。
彼の「復活事業」は、軍事力の轉用、祖先の遺骸粒子の蒐集、博物館を據點とした死者に關する硏究と身體の再構築、そして理想社會の形成といふ、具體的かつ包括的な活動を伴ふ。これは、神の業と人閒の業を切り離さずに共働 (συνεργία)させる「神人共働 (συνεργία)」の精神に基づいてゐる。
フョードロフのキリスト論は、キリストを單なる道德敎師や模範とせず、「贖い主」としての意味を強く保持しながらも、その贖いの業を人類全體の「復活事業」へと延長する。彼はトルストイの無抵抗主義を批判し、キリストの十字架を人閒本性を死性から解放する祕儀であり、人類統合のための最高の無抵抗の例と捉へた。また、正敎の十字架と復活の解釋、特に「再統合」理論を用いて、キリストの業と人類の事業が不可分であることを示した。ラザロの復活とキリストの復活は、人類による能動的な復活事業の端緖であり、その模範であると位置づけられた。
さらに、フョードロフの思想は「万物恢復論」の系譜に屬し、歷史的時閒に生じた「惡」の問題に深く向き合ふ。彼は、傳統的な最後の審判における惡人への永遠の責め苦を普遍的な罰と捉へ、これを囘避するために、人類が悔い改めて能動的な復活事業を步むべきだと主張した。そのために、彼は「過去帳」の槪念を再解釋し、重い罪を犯した者や無名者を含む全ての死者を「追憶」の對象とすべきだと唱へた。この「追憶」は、単なる感情的な行為ではなく、「理解することは赦すことである」といふ原則に基づいた「研究」を伴い、罪人の行動背景を明らかにすることで、彼らを罪から切り離し、敎會共同體へと取り戻す力を有するとされた。
最終的に、フョードロフの共同事業、特に過去帳による追憶は、「事實としての歷史」を「プロジェクトとしての歷史」へと意味づけし直し、人類の現在における勞苦を通じて、過去に生きた生命そのものを變容させ、神化 (人閒神化) させることを目指すものである。彼は、近代のキリスト敎敎義への不信を正面から受け止めながらも、受動的な復活觀に代わる能動的な復活解釋を提示し、傳統を基盤としつつも近代に應へうる思想を構築しようと奮鬪した思想家であった。
福井祐生「万物回復論と歴史的時間における悪 : フョードロフ思想における過去帳」2020
万物更新説 - Wikipedia
синодик (過去帳)
福井祐生「フョードロフ思想における「復活」とキリスト論の問題」2021
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